「マクベス」への長い旅③


2009/10/28
仲代さんの舞台を、見る。
能登演劇堂」は、凄い!
マクベス」も凄い!
何より、仲代さんが、凄い!
とにかく、それだけだ。
それだけで十分だろう。
亡き奥様への思いのこもった舞台だった。
他のキャストも、スタッフも、仲代さんを、尊敬している。
それが、美しかった。
和倉温泉に戻り、晩御飯。
宿に戻って、テレビを見る。
転覆した船から、四日ぶりに、船員が救出されたとのこと。
船長は、ボートから発見されたが、亡くなったらしい。
家族の姿が、痛々しい。
国会では、初の与野党の質疑。
自民は、墓穴を掘っているが、やはり、NHKは、旧与党寄りのコメントしか出せない。
まだまだ、おおかたのマスコミは、与党批判しかしない。

「映画作りは、地獄めぐり」
そんなことを、思い知った、今日一日。
国会中継を思い出し、
「どこも地獄か」
とも思う。
善人がいつの間にか、悪人になっていく。
『ダーク・ナイツ』を思い出した。
ようやく、風呂に入る。
源泉掛け流しの湯。
温度も、ほどほど。
最高の湯だった。
ここは、良い!
で、部屋に戻り、ビール。
なぜか、今でも、仲代さんのことが、頭から離れない。
もし、一月まで、生きてられたら、「ジョン・ガブリエルと呼ばれた男」も見に行こう。
能登演劇堂で!!








2009/10/29
朝食を摂って、直ぐに出る。
金沢、加賀を過ぎて、今庄へ。
名物らしい「おろし蕎麦」食べる。
美味くて、お替り、注文する。
余呉を経て、滋賀県に入る。
北河内から、郡上。
米原、岩倉山の関が原、大垣、一宮を経て、名古屋へ。
へとへとになる。
ホテルにチェックインして、気絶したように眠る。
突然、跳ね起きて、Kさんに連絡。
鳥鍋食べる。
これが滅法美味い。
味噌仕立てで、最後にひもかわを入れる。
ごはんも食べたので、腹いっぱい。
こんなに満ち足りた気分になるのも、何年ぶりか?
堀川沿いのカフェで、ラテを飲む。

「マクベス」への長い旅②


2009/10/26
長野に、移動。
チェックインまで、時間があったので、ファミレスに入り、時間を潰す。
ホテルで貰った新聞を読む。
野村監督の記事なんかを読むが、どうもうまく、時間が潰せない。
最近は、老眼が進んでしまい、何か読むときは、老眼用のメガネに付け替えるのだが、そうなると、近いところしか、見えず、気持ちが内向していく。
だから、普通のメガネと、老眼用のメガネとを、ひっきりなしに付け替えているのだけれども、とうとう、老眼用のメガネを鞄に戻して、しまった。
だから、もう、何も読まないし、何も書かない。
そうなると、もう、することがない。
コーヒーを何杯も飲むわけにもいかず、かと言って、まだ出るには、時間が早すぎる。
外は、雨。
昼時となり、次から次へと、客が入ってくる。
四人掛けのテーブルに通されたボクは、一人陣取っているのが気が引けて、カウンターに移ろうと思うのだけれども、ウェイターは、それどころじゃない。
で、仕方なく、コーヒーのお替りをしながら、ウェイターに声を掛けて、ランチメニューを告げる。
で、昼飯。
食べ終わっても、まだチェックインの時間には早い。
でも、もう、どうすることも出来ない。
ファミレスを出て、ホテルへ。
「まだ、ですよね」
と、訊くと、
「掃除は済んでますので、直ぐにお入りになられます」
と、言う。
ホッとして、部屋に入り、一服する。
ついでにビール。
しかし、このまま寝てしまうと、また、夜中に目が覚めてしまうので、ぜえぜえ息しながら、部屋を出る。
フロントで、傘を借りて、外へ。
デパートなどを歩いて、居酒屋で夕飯。
ホテルに戻り、テレビで、鳩山さんの所信表明演説の報道を見る。
哲学的な政治家の演説と言うものを初めて聞いた気がする。

またもや、興奮してしまい、二時間ほどで目覚めてしまう。
映画の撮影は、具体だが、シナリオは、哲学だ。
「具体がない、具体がないと野党になり下がった自民党は言うが、与党時代の自民党が、それでは、具体をひとつでも言ったことがあるのか!」
と、怒鳴る。
何でも、哲学が基本だ。
哲学するには、時間が掛かる。








2009/10/27
ホテルを出て、カーナビをセット。
七尾市まで、一般道で行く決心をする。
小川町。
大町。
白馬。
紅葉がいい感じで色づいている。
昔、オートバイで、黒部ダムまで旅をしたことを思い出す。
子供の頃、『黒部の太陽』に感動したボクが、十何年後かに実現した冒険だった。
でも、黒部ダムを見るには、大町ルートからだとトロッコに乗らなければならず、乗り場で断念したものだった。
糸魚川から、魚津。
富山。
高岡。
友部さんの歌を思い出す。
氷見。
うどん屋がないかと、探す。
ない。
和倉温泉
今日から二日滞在する宿は、「ふじたや」という宿。
訪れたとき、ご主人が留守のようで、奥の部屋で、寝ていたおばあちゃんが出て来て、部屋の案内をしてくれた。
荷物を置いて、一服して、少し早いが、外出。
まだ、呑み屋は開いてなかったので、角のスナックに入り、ビール。
店内は、おばちゃんばかりで、コーヒーを飲みながら、話している。
温泉街と言うものは、普通、女将が表にいて、主人は裏にいると思っていたが、ここではそうではないようなのだ。
いや、これはボクの思い違いだな。
ここに女将さんたちはいず、近くの商店などから集まった人たちなんだろう。
しかし、何とも、のどかな風景だった。
店を出て、寿司屋へ。
焼酎を一杯。
さざえの壷焼きと、何だったかを食べ、寿司を四つほどつまんで、宿へ。
もう、心臓がドキドキしていて、何も出来ない。
それでも、テレビを見ていたのだけれども、気が付いたら眠ってしまい、また、深夜に目覚めてしまった。
明日も、辛い一日になる予感。

「マクベス」への長い旅①

2009/10/24
何をしたか、覚えていない。












2009/10/25
唐桑へ行く気分で、車を運転していたせいが、おどろくほど早く、上田に到着する。
ホテルにチェックインしてから、例によって、閑散とした商店街を歩き、駅前へ。
ドトールに入り、コーヒー。
上野が、奥さんと子供たちを連れて、来る。
少し話してから、隣の居酒屋へ。
ビールを呑んでから、焼酎となる。
先に、ボクは蕎麦を食べる。
歯が浮くほど冷たい。
そう言えば、随分前に、上田に来たとき、上野と彼の兄貴とうちの家族とで、蕎麦屋に入ったのだが、蕎麦の味よりも、その冷たさに驚いたことがあったけれども、きんきんに冷えた蕎麦と言うのが、やはり、ここでは、鉄則なんだろうか?
江戸の蕎麦は、こんなに冷えていない。
ま、冷たい方が美味いことは、美味いが、あんまり冷たいと、何だか、蕎麦を食べている気がしない。
歯が浮いて、舌がキーンと冷えた状態では、蕎麦の味が、ワカラナイ。
ボクなんかは、田舎の人たちのことは、判らないけれども、決まりとか、形とかに最近の若い人たちは、とらわれすぎているように思う。
スパゲティーにしても、芯が固いのを、アルデンテなどと言っているが、そんなものを、喜んで食べているのは、日本人だけで、本場、イタリアでは、大体、どこへ行っても、生パスタ。
つまり、手打ちうどんのようなものなのだ!
手打ちうどんに、芯が固いのは、ありえないように、スパゲティーにも、基本的には、アルデンテは、一般人としては、ありえない。
立ち食い蕎麦屋で、
「メン固めにね!」
なんて言う奴は、バカしかいないだろう。
うどん屋で言っても、それは、バカだ。
家で、お母さんに言ったら、
「アホ!」
と、言うことになるではないか!!
つまり、アルデンテなんてのは、「生煮え」であって、昔で言えば、「食えたもんじゃない」と言うことだ。
また、話が横道に逸れてしまったけれども、あまりにも、饒舌な上野から、一時も早く退散したいと思い、
「じゃ、まあ、そう言うことにしようかぁー」
と、生あくびをかみ殺して、言うのだけれけども、聞いてない。
「明日はどうするんですか?」
と、訊くから、
「明日? 明日は、長野だし、シネコンで、朝から、映画でも観ようと思ってるんだ」
「何の映画ですか」
「何とかの太陽」
「ああ、あれね! あれは、観る必要ないです!」
「どうして」
「どうしてもです! あんなのを監督が観る必要ないです!」
と、断定されてしまい、途方に暮れた。
そうか。
観る必要ないのか。
渡辺謙の映画なんだけどな!
と、思うが、何も言わずに、平気で、レモンハイのお替りをする上野を、尻目に、お茶を頼み、
「なあー、もう、帰ろうぜ!」
と、言うのだが、もちろん、聞いてはいない。
久しぶりの酒だったらしい。
おまけに映画の話をするのも久しぶりなんだろう。
酩酊に近いぐらい、酔っている。
「やはり、ボクは、自分への清算と言う意味でも、『鬼火』のような歌画を作りたいんですよね」
「主人公が死ぬ映画か」
「ええ。欝への清算ですかね」
「なるほど」
「監督は、次は」
「ボクは、しばらくはね」
「何だ。今年は、凄い勢いで作ってるから、あと、二三本は、いくんじゃないかと思ってました」
「今年?」
「ええ。五本ぐらい作るんじゃないかと」
「はは! そりゃあ、無理だよ」
「そうですか」
「無理だよ。もう今年は、ないよ」
「そうですか」
それでその話は、終わってしまったのだけれども、「無理」だと言いながら、ムクムクと、創作欲が沸いてきているのも事実だ。
しかし、体が、ついてこない。
やはり、無理だろうな、と自分に言う。
上野と別れて、ホテルに戻る。
何となく、テレビを点けて、お茶を入れて眺めていると、いい時間になってしまい、昨日もあまり寝てないので、そろそろ寝ようと、ベッドに入るが、寝付けない。
とうとう、朝になってしまい、下のレストランで、朝食をとる。
「無理だよ、無理」
まだ呟いている、自分がいる。

2009/10/23

やはり来た。
健康診断に行った、クリニックからの呼び出しだ。
四年前の悪夢を思い出す。
しかし、電話に出た看護婦さんに、恐る恐る訊いたら、血糖値もヘモグロビンa1cも、病院通いをやめた頃からそれほど変わってはいない。
少し、ホッとするが、やはり、医者と話さないことには、確信は得られないので、日時を約束して、行くことにする。
とは云え、再来週だから、まだ、時間はある。
それまでは、執行猶予と云うことのになるので、ぜいぜい、呑んで食べることにしよう。
なんてね。
そんなこと、気の弱いボクには、出来ないのだけれども…。

映芸のwebに『ワカラナイ』の批評が載っていて、読んでいたら、不愉快になった。
ことごとく的を得ていないのは、仕方ないとして、文章が、さもありなんのインテリ映画青年の文章で、それが、癪に障る。
「安易」とか「陳腐」とかの言葉がある。
見間違いも多々あり、とても、批評にはなっていない。
映画の作り手は、作品が全てなので、本来、こう云う的外れな文章にしても、目をつぶるべきだとは思う。
映画の解釈など、観た人の数だけあるのだから。
しかしながら、こうした浅はかな中傷とかいちゃもんの部類に属する文章が、個人のブログではなくて、仮にも映画芸術と云う映画専門誌のwebに載っていると云うことは、一体、どう云うことだろう。
しかも、学生の書いた投稿原稿だ。
実名なのか何なのか、ご丁寧に、氏名まで書かれている。
公開前に、単なる学生が、お金を払ってこの映画を観られるはずもなく、プレス試写に紛れ込んで来たのだろうから、投稿と云う形をとった、依頼原稿なんだろう。
海外の映画祭で観たと云う可能性もあるが、明らかに、この人は、日本のプレス向けのリリースを読んでいる気配があるので、その可能性は薄い。
しかし、嘘を書かれるのは、辛いので、ここに引用しながら、書き込むことにした。





「監督自身が様々な媒体で語っているように、そもそもはフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』のような作品を撮りたいという想いで『ワカラナイ』を作ったという。」
これに関しては、既にブログで書いているように、そんな不遜なことは言ってない。
宣伝の人が、作った文章なので、宣伝部に、プレスなどの記載削除をお願いしていて、その通りになっている。
この書き手は、削除前のプレスを読んで書いたものなので、そのこと自体に罪はない。しかしながら、
「様々な媒体で語っている」
という記述は、間違いで、ボクは、このような事を、語った覚えはない。
この映画に、作者は、
「しかし、残念ながら『ワカラナイ』は、作品構造としてあまりにもわからないことが多過ぎて(前提を欠き過ぎていて)、観客に対して作品に入っていく余地すら与えず、閉塞した印象をもたらしていることは否めない。何より前述したように、少年の貧困という作品の背景にある経済問題が浮いてしまっていて、設定としての機能を果たしていない。これではゼロ地点ではなく、むしろマイナス地点からの出発だし、『ワカラナイ』という作品の持つベクトルの方向性が不明瞭過ぎるように思える。」
と、書いている。
難しく書いてはいるが、つまり、俺には、この映画、ワカラナイと言うことだ。
「少年の貧困という作品の背景にある経済問題が浮いてしまっていて」
とあるが、この書き手は、現代に息している現代人のはずだ。
今の日本が置かれている、経済問題への認識が、ないのだろうか?
現代の日本の「子供の貧困」には、無関心なのか、無知なのか?
「映画」とは、そもそも、時代の鏡であるべきなので、そんな前提は、必要ないのだ。
この書き手は、本当に怠惰だ。
すべてを与えてくれないと、ワカラナイ。
ワカラナイことには、途方に暮れ、興味を失う。
そんな風に、デジタル的に、直結していく。
「残念」
なんて言う、都合のいい表現を使い、ごまかす。
「捨てた息子(主人公の少年)を一度は拒絶した父親が、再び会いに来た主人公を抱きしめるという終盤のシーンである。この安易さはなんなのだろうと吃驚するし、ラストで主人公が坂道を登っていくという象徴的なシーンも陳腐過ぎるというか、文字通りわからない。父親は助けてくれないの? それとも少年がそれを拒んだのか? あるいは少年の「一人で生きる」という宣言だったのか? それを描くことを作者は『ワカラナイ』と、放棄してしまっていいのだろうか? と、疑問だけが残ってしまう(作者は放棄したつもりはないかもしれないが)。これではあくまでも出発地点であったはずの『ワカラナイ』が、結論としての『ワカラナイ』になってしまっているのではないか……?」
ともあるが、ボクは、
「一度は拒絶した父親が、再び会いに来た主人公を抱きしめるという終盤のシーン」
など、撮影したつもりはない。
父親は、あの時、抱きしめてはいない。
いや、抱きしめられないから、あのシーンを撮ったのだが、この作者は、自分の都合でしか、書いていない。
つまり、自分なりに、この映画を作り変えているだけなのだ。
このシーンを、「安易」と書き、その次のシーンを、今度は、「陳腐」だと書く。
「ふざけるな!」
と、言いたい。
挙句に、
「これではあくまでも出発地点であったはずの『ワカラナイ』が、結論としての『ワカラナイ』になってしまっているのではないか……?」
で締めくくられている。
何をかいわんやだ。
書き手が、自分の文章の締めくくりに、「映画」を放棄してしまっている。
この文章自体が、ワカラナイであり、書き手自身が、ワカラナイだけなのに、それを、『ワカラナイ』と言う映画と、その作り手たちへの責任に転嫁している。
「だが、そもそもなぜ主人公がこれほどまでに孤独で経済的に困窮しているのか、という重要な問題も『ワカラナイ』では全く描かれることがないことを、僕たちはどう受け止めればいいのだろうか?」
「僕たち」なんて言葉を、平気で使う青臭さには鼻白むだけだが、
〈そもそも、なぜ、この書き手は、主人公が孤独で経済的に困窮しているのか、という重要な問題も『ワカラナイ』では、全く描かれることがない〉
と断定していることを、ボクは、どう受け止めればいいんだろう?

一日、家にいる。
正確に書けば、家ではなくて、賃貸集合住宅の1LDKに住んでいるので、部屋と書いた方が良いのかもしれない。
大きな家なら、一日居ても、苦ではないだろうが、狭い部屋では、息が詰まる。
息子が帰ってきてからの、数時間は、とても仕事なんて出来たもんじゃない。
おまけに、最近は、またにだが、息子の宿題をみたりしているから、深夜とか、早朝が、ひとりの時間だ。
「いいわなぁー、ひとりの時間が持てて」
と、奥さんの皮肉な声が聞こえる。
「わしなんか、ひとりになれるの、寝てるときだけやわぁー」
とね。

2009/10/22

来週は、仲代さんの舞台「マクベス」を能登まで見に行く予定で、その行き帰りに、ひとり旅をしようと考えている。
で、そのスケジュール作りをしているところなんだけど、なかなか、予定が組めない。
決まっているのは、上田で、上野と会い、呑むと言うことだけ。
長野にも行きたいし、魚津の町も見てみたい。
氷見うどんは、美味いから、これは外せないとして、そうそう、戸隠の蕎麦と言うのもその土地で食べてみたい。
へぎそばは、まあ、いいか。
そうね、そうそう。
金沢もいいかも知れない。
確か、永瀧さんは、金沢住まいではなかったかな。
いるかな。いたら久しぶりに会ってみたいな。
と、なると、名古屋に出て、東名高速で戻ると言うことになるな。
それじゃ、名古屋で一泊して、九鬼さんに会うか。
ついでに、『ワカラナイ』の公開をしてくれる「シネマテーク」にも顔を出して、挨拶でもして、ああ、いとうさんにも会わなくちゃいけない。
いや、「いとうさんにも」ではなくて、何を置いてもいとうさんには会わなくちゃな。
『ワカラナイ』に曲を提供してくれた人だからな。
いや、待てよ。
名古屋もいいけど、大阪もいいな。
金沢からだったら、大阪もそれほど遠くはないし、池田で、「ささめうどん」を食べて、その晩は、奥さんの実家に泊めてもらおうか。
いや、待てよ。
能登から、また、長野に戻り、群馬に出るのも悪くないぞ。
群馬に行くなら、八ッ場ダムだろう。
となると、泊まりは、川原湯温泉と言うことになる。
なにせ、ダムに沈む温泉だからな。
しかし、中止となった今、この温泉地は、どうなるのかな。
いずれにしても、当地で、散策もいいかな。
しかし、七尾市からだと、六時間はみなくちゃいけないな。
六時間か。
昼飯の時間を入れると、十時に発っても、五時か。
日が暮れるな。
うーん、どうしたものかな。
困ったな。
で、ふと我に返る。
この旅のテーマは、仲代さんの舞台を見ることで、その前後の旅ではないのではないか!
と、なると、予習の意味で、「マクベス」を読むべきで、「マクベス」を読んだら、次は、「リア王」か。
『乱』も観なくちゃならない。
『影武者』
や、
蜘蛛巣城
もだ。
「いのちぼうにふろう物語」
もビデオが入手できるなら、見ておくべきで、そうなると、
『人間の条件』全巻
もここらで、もう一度見直す必要がある。
「うーん、困ったな。どうしよう」
と、思いを巡らすと、ふと、ケネス・ブラナーのことが頭を掠め、このシェイクスピア俳優の監督作が必見と気付き、
「ツタヤに行くか!」
とか、
「アマゾンで、DVDか!」
とか、色んなことを考えた挙句に、南田洋子さんが亡くなったことを思い出して、
「俺も認知症の気があるかも知れない」
と、鳥肌を立てる。
長門さんと南田さんのドキュメンタリーに、讃より、非の方が多かったことを、思い出し、「長門さんは、人でなしだ!」
などと書かれたこともあったけれども、あの泪は、役者の泪じゃないだろうと、長門さんの痛恨を悼む。
遠回りばかりで、一向に、能登行き前後のスケジュールが立てられないので、ああ、困った!
こう言う時に、酒を呑んでしまうと、いけないので、じっと我慢をするのだが、カトリーヌさんから、電話で、裏返った声で、
「今、六本木なんですけどぉー、これから木場に戻らなくちゃならないんですけどぉー、映画のこともありますからぁー、今夜、会えますか!」
と言うので、ボクは、うろたえてしまい、
「ちょと待って、プレイバック。その言葉、プレイバック! プレイバック!」
の、百恵さんの歌を思い出し、スケジュールの件は、凍結し、月島へと向ったのだ。
しかし、直接行かないのは、ボクの悪い癖で、
「それじゃあ、豊洲に行って、時計の電池交換をして、それから、ええと…、手帳を見てと、その後は、プロントで、ピルスナーかなぁー」
と、結論を出す。
月島は、素敵な町だが、
「ここに住んだら、確実に脂肪肝でイチコロだな!」
と思い、終の棲家は、唐桑の気持ちを曲げない。
しかし、ボクらは、いつになったら、唐桑に行くんだろう。
別に、別荘のつもりで買ったのではなくて、食い詰める前に、移り住もうと思って、買ったのだが、一向にその気配は、ない。
「困ったな! そんなに優雅じゃないんだけどな! 今だって、賃貸だしな!」
と呟くが、
「ローンは、現代の小作人
と書いた、この住宅の階下の人の書いた文章を思い出して、
「賃貸も、小作だろう」
とか思うわけで、
「よし! やはり、来年は、唐桑だ!」
と、決意する。
やはりとうとう、能登行き前後のスケジュールは、未完に終わるのだけれども、何としても、実現だけはしたいものだ。

2009/10/21

またもや何年振りかで、健康診断に行く。
増上寺近くのクリニック。
増上寺の方に行くのも何年振りか?
終わったら、三田界隈を奥さんと散歩しようと思っていたけれども、朝食を食べたきりで、三時過ぎまでいたので、終わったら、空腹で、それどころではなくなってしまった。
慣れないカーナビを頼りに、自宅へと向う。
飯田橋に出て、いつもの蕎麦屋に行こうと思ったけれども、車なので呑むわけにもいかず、ならばと、自宅の方に走らせた結果が、新木場の倉庫街にある立ち食い蕎麦屋
べつに、美味い立ち食いでもないのに、なぜか、車を走らせている途中から、
「あそこだ!」
と、決めているんだから、どうかしていたのだろう。
動揺していたということだ。
ところで、これは、ボクの昔からの持論なのだけれども、「蕎麦屋」の蕎麦と「立ち食い蕎麦屋」の蕎麦とは、名前は一緒でも、全く違うものであって、「蕎麦屋」の蕎麦と、「立ち食い蕎麦屋」の蕎麦とを比較する愚は、ない。
たとえば、方南町の地下鉄の出口にある「立ち食い蕎麦屋」の蕎麦は美味いが、新宿の伊勢丹の裏にある、「立ち食い蕎麦屋」の蕎麦は、確実にまずい。
それは、歩いて20分ほどのところにある「そじ坊」の蕎麦は、近くに蕎麦屋がないからといって、入る気がしないのと、方南町の「仲座和」の蕎麦を、車をけってでも食べに行きたいのとの違いに至極近い。
なぜだろう。
飯田橋の「尾張屋」は、無愛想な二代目がいて、いつもあいつがいるかどうかを外から見て、
「ああ、またいやがった!」
と、思ったところで、入ってしまい、小声で、
「カレーそば」
などと言っている。
「ご飯付きますが、付けます?」
「何度も食べてるんだからさ。判るだろ」
「いえ」
「何、いえって」
「わからないですよ、そんなこと!」
と、むくれて行ってしまうから、
「おい! 聞いてんのか!」
と喧嘩腰だ。
「もう通ってます!」
「通ってるなら、判ってるってことだろ!」
こんなことばかりやっていながら、ここには入ってしまうのは、やはり、蕎麦の好みが合うということだ。
一方、「翁庵」は、好きな蕎麦屋だけれども、蕎麦は滅多に食べない。
食べても、もりぐらいだ。
いや、もりが食べればそれでいいのかも知れないが、「カレーそば」や「たぬきそば」が食べたいときもあるし、その方がボクの場合は多いかもしれない。
そう言うとき、「翁庵」は、少し、困る。
江戸前だからだ。
「仲座和」もそうだけれども、江戸前蕎麦屋の「かけそば」と言うのは、舌が痺れるほど、塩辛い。
これを親父は、出前で頼み、蕎麦を食べると、つゆに冷や飯を入れて、お茶漬けのようにして食べていたのだが、血圧が高くなってからは、避けるようになった。
ボクも、親父の真似をして食べてると、
「お前、そりゃあ、うめーんだけどよぅー。早死にするぞぅー」
と、涎でも垂らしそうな顔で、ボクと蕎麦の器を見比べていたっけ。
話が横道にそれてしまったけれども、今日、ボクは、とにかく、新木場のまずい「立ち食い蕎麦屋」で、かき揚げ蕎麦を食べたのだ。
それだけは確かだ。
帰宅して、後悔に苛まれる。
一生に一度の、今月今夕の食事を、ただ腹を満たすだけに終わらせてしまったことへの後悔だ。
付き合ってくれた奥さんにも、申し訳なく思う。
パスタがいいんだろうなぁーと、思っていたのにな!

色々と作業をしながら、テレビを見る。
竹中平蔵が出て来て、何だかんだと、民主党の悪口を言っている。
新聞でも、大特集だ。一ページ全面を割いている。
広告でもないのにだ!!
何を考えてるんだか、NHKと朝日は。
…まだ、ひと月だと言うのに。
大体、世の中、スポーツ選手以外を褒める事を知らない人が多すぎる。
そりゃあ、バカでも判りやすいからな、スポーツは。
勝ち負けがはっきりしてるし、ひとりひとりが価値判断をしなくてもいいわけだから、褒めやすいとも言えるな。
朝清龍なんかは、別だけどな。
この人には、ひとりひとりの価値判断が必要になってくるからな。
バカには、ワカラナイだろう。
しかし、認知症らしき都知事はオリンピック誘致失敗がなかったかのように、八ッ場ダムで、気勢をあげてるな。
自民は野党に成り下がった途端、自民らしさがなくなってしまい、過去の利権をどう守るかで必死になってて、かつての野党と同じように、与党批判ばかりしている。
55年も与党にいて、おおらかさと言うものを何一つ、身につけていない。
自己批判も、一切なし。
「全く、どうかしてるぜ!」
と、チックが、酷くなる。
久しぶりにライクーダーを聞くことにしよう。
とっておきのライブが、あるんだ。
それは、
「パラダイス&ランチ」。
いいぜぇー、このアルバムは!!

2009/10/19

半蔵門まで、車で行く。
「ぴあ」の中のスタジオで、「テレビ埼玉」の取材。
「『白夜』のときは、どうして来てくれなかったんですか!」
と、いきなり言われたので、面食らう。
作家の映画として売ろうとしていないので、辞退したのですとも言えず、適当に答える。
映画監督は、全てが作家で、こう言う表現は正しくないのだが、そうとしか書きようがないのが、日本の映画の現状だ。
残念至極。
『ワカラナイ』について、
「少年の目から見た日本と言うことですが」
と、言う質問があったので、
「それは、映画作りと言うものがそう言うものなのです」
と、答えた。
社会的なテーマがあって、シナリオを書き、それを映画にするなんてのは、愚の骨頂だと思う。
「映画」と言うものは、観る側が読み解くものだろう。
また、作り手は、ドキュメンタリストのように、真摯にリアルと対峙して、作っていくもので、そうすればおのずと、社会性を帯びてくると信じている。
でなければ、死ぬほどの努力を重ねて、映画を作る意味などないではないか!
「目線を低く」が、最近のボクの撮影にあたっての基本姿勢で、それは、ローアングルと言う意味ではない。
作り手の傲慢を排して、判らない事は、徹底的に追求していくと言うことだ。
高みから、見下ろすような作り方は、ボクには出来ない。
「お客はバカだから」
なんて言う言葉が、業界には依然はびこっているけれども、バカな奴なんかいやしないし、いるとしたら、こう言う発言を平気でする連中をバカだと思う。
作り手は、徹底して真摯にならなければならない。
自分がどれくらい何も知らないアホだったのかに気付くべきなのだ。
映画を作りながら。
それが映画作りだし、だからやっている。
自分の腹黒さと向き合いながら。

八ッ場ダムの視察に、都知事らが集まったと言う報道。
画面では、住民たちが、建設中止を思いとどまるよう「国」に訴えている。
こう言うニュース映像と言うものの信憑性と、裏返しの作為には、慣れっこになっているが、
「どうなんだろうか?」
と言う疑問が湧くのは、まだエネルギーのある証拠か?
しかし、動かなくちゃ、意味はない。
怠惰は敵だなと、遼くんを見て、思う。

事務所に寄り、ららぽーとで、遅い昼食をとり、帰宅。