2009/10/23

やはり来た。
健康診断に行った、クリニックからの呼び出しだ。
四年前の悪夢を思い出す。
しかし、電話に出た看護婦さんに、恐る恐る訊いたら、血糖値もヘモグロビンa1cも、病院通いをやめた頃からそれほど変わってはいない。
少し、ホッとするが、やはり、医者と話さないことには、確信は得られないので、日時を約束して、行くことにする。
とは云え、再来週だから、まだ、時間はある。
それまでは、執行猶予と云うことのになるので、ぜいぜい、呑んで食べることにしよう。
なんてね。
そんなこと、気の弱いボクには、出来ないのだけれども…。

映芸のwebに『ワカラナイ』の批評が載っていて、読んでいたら、不愉快になった。
ことごとく的を得ていないのは、仕方ないとして、文章が、さもありなんのインテリ映画青年の文章で、それが、癪に障る。
「安易」とか「陳腐」とかの言葉がある。
見間違いも多々あり、とても、批評にはなっていない。
映画の作り手は、作品が全てなので、本来、こう云う的外れな文章にしても、目をつぶるべきだとは思う。
映画の解釈など、観た人の数だけあるのだから。
しかしながら、こうした浅はかな中傷とかいちゃもんの部類に属する文章が、個人のブログではなくて、仮にも映画芸術と云う映画専門誌のwebに載っていると云うことは、一体、どう云うことだろう。
しかも、学生の書いた投稿原稿だ。
実名なのか何なのか、ご丁寧に、氏名まで書かれている。
公開前に、単なる学生が、お金を払ってこの映画を観られるはずもなく、プレス試写に紛れ込んで来たのだろうから、投稿と云う形をとった、依頼原稿なんだろう。
海外の映画祭で観たと云う可能性もあるが、明らかに、この人は、日本のプレス向けのリリースを読んでいる気配があるので、その可能性は薄い。
しかし、嘘を書かれるのは、辛いので、ここに引用しながら、書き込むことにした。





「監督自身が様々な媒体で語っているように、そもそもはフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』のような作品を撮りたいという想いで『ワカラナイ』を作ったという。」
これに関しては、既にブログで書いているように、そんな不遜なことは言ってない。
宣伝の人が、作った文章なので、宣伝部に、プレスなどの記載削除をお願いしていて、その通りになっている。
この書き手は、削除前のプレスを読んで書いたものなので、そのこと自体に罪はない。しかしながら、
「様々な媒体で語っている」
という記述は、間違いで、ボクは、このような事を、語った覚えはない。
この映画に、作者は、
「しかし、残念ながら『ワカラナイ』は、作品構造としてあまりにもわからないことが多過ぎて(前提を欠き過ぎていて)、観客に対して作品に入っていく余地すら与えず、閉塞した印象をもたらしていることは否めない。何より前述したように、少年の貧困という作品の背景にある経済問題が浮いてしまっていて、設定としての機能を果たしていない。これではゼロ地点ではなく、むしろマイナス地点からの出発だし、『ワカラナイ』という作品の持つベクトルの方向性が不明瞭過ぎるように思える。」
と、書いている。
難しく書いてはいるが、つまり、俺には、この映画、ワカラナイと言うことだ。
「少年の貧困という作品の背景にある経済問題が浮いてしまっていて」
とあるが、この書き手は、現代に息している現代人のはずだ。
今の日本が置かれている、経済問題への認識が、ないのだろうか?
現代の日本の「子供の貧困」には、無関心なのか、無知なのか?
「映画」とは、そもそも、時代の鏡であるべきなので、そんな前提は、必要ないのだ。
この書き手は、本当に怠惰だ。
すべてを与えてくれないと、ワカラナイ。
ワカラナイことには、途方に暮れ、興味を失う。
そんな風に、デジタル的に、直結していく。
「残念」
なんて言う、都合のいい表現を使い、ごまかす。
「捨てた息子(主人公の少年)を一度は拒絶した父親が、再び会いに来た主人公を抱きしめるという終盤のシーンである。この安易さはなんなのだろうと吃驚するし、ラストで主人公が坂道を登っていくという象徴的なシーンも陳腐過ぎるというか、文字通りわからない。父親は助けてくれないの? それとも少年がそれを拒んだのか? あるいは少年の「一人で生きる」という宣言だったのか? それを描くことを作者は『ワカラナイ』と、放棄してしまっていいのだろうか? と、疑問だけが残ってしまう(作者は放棄したつもりはないかもしれないが)。これではあくまでも出発地点であったはずの『ワカラナイ』が、結論としての『ワカラナイ』になってしまっているのではないか……?」
ともあるが、ボクは、
「一度は拒絶した父親が、再び会いに来た主人公を抱きしめるという終盤のシーン」
など、撮影したつもりはない。
父親は、あの時、抱きしめてはいない。
いや、抱きしめられないから、あのシーンを撮ったのだが、この作者は、自分の都合でしか、書いていない。
つまり、自分なりに、この映画を作り変えているだけなのだ。
このシーンを、「安易」と書き、その次のシーンを、今度は、「陳腐」だと書く。
「ふざけるな!」
と、言いたい。
挙句に、
「これではあくまでも出発地点であったはずの『ワカラナイ』が、結論としての『ワカラナイ』になってしまっているのではないか……?」
で締めくくられている。
何をかいわんやだ。
書き手が、自分の文章の締めくくりに、「映画」を放棄してしまっている。
この文章自体が、ワカラナイであり、書き手自身が、ワカラナイだけなのに、それを、『ワカラナイ』と言う映画と、その作り手たちへの責任に転嫁している。
「だが、そもそもなぜ主人公がこれほどまでに孤独で経済的に困窮しているのか、という重要な問題も『ワカラナイ』では全く描かれることがないことを、僕たちはどう受け止めればいいのだろうか?」
「僕たち」なんて言葉を、平気で使う青臭さには鼻白むだけだが、
〈そもそも、なぜ、この書き手は、主人公が孤独で経済的に困窮しているのか、という重要な問題も『ワカラナイ』では、全く描かれることがない〉
と断定していることを、ボクは、どう受け止めればいいんだろう?

一日、家にいる。
正確に書けば、家ではなくて、賃貸集合住宅の1LDKに住んでいるので、部屋と書いた方が良いのかもしれない。
大きな家なら、一日居ても、苦ではないだろうが、狭い部屋では、息が詰まる。
息子が帰ってきてからの、数時間は、とても仕事なんて出来たもんじゃない。
おまけに、最近は、またにだが、息子の宿題をみたりしているから、深夜とか、早朝が、ひとりの時間だ。
「いいわなぁー、ひとりの時間が持てて」
と、奥さんの皮肉な声が聞こえる。
「わしなんか、ひとりになれるの、寝てるときだけやわぁー」
とね。