2009/10/19

半蔵門まで、車で行く。
「ぴあ」の中のスタジオで、「テレビ埼玉」の取材。
「『白夜』のときは、どうして来てくれなかったんですか!」
と、いきなり言われたので、面食らう。
作家の映画として売ろうとしていないので、辞退したのですとも言えず、適当に答える。
映画監督は、全てが作家で、こう言う表現は正しくないのだが、そうとしか書きようがないのが、日本の映画の現状だ。
残念至極。
『ワカラナイ』について、
「少年の目から見た日本と言うことですが」
と、言う質問があったので、
「それは、映画作りと言うものがそう言うものなのです」
と、答えた。
社会的なテーマがあって、シナリオを書き、それを映画にするなんてのは、愚の骨頂だと思う。
「映画」と言うものは、観る側が読み解くものだろう。
また、作り手は、ドキュメンタリストのように、真摯にリアルと対峙して、作っていくもので、そうすればおのずと、社会性を帯びてくると信じている。
でなければ、死ぬほどの努力を重ねて、映画を作る意味などないではないか!
「目線を低く」が、最近のボクの撮影にあたっての基本姿勢で、それは、ローアングルと言う意味ではない。
作り手の傲慢を排して、判らない事は、徹底的に追求していくと言うことだ。
高みから、見下ろすような作り方は、ボクには出来ない。
「お客はバカだから」
なんて言う言葉が、業界には依然はびこっているけれども、バカな奴なんかいやしないし、いるとしたら、こう言う発言を平気でする連中をバカだと思う。
作り手は、徹底して真摯にならなければならない。
自分がどれくらい何も知らないアホだったのかに気付くべきなのだ。
映画を作りながら。
それが映画作りだし、だからやっている。
自分の腹黒さと向き合いながら。

八ッ場ダムの視察に、都知事らが集まったと言う報道。
画面では、住民たちが、建設中止を思いとどまるよう「国」に訴えている。
こう言うニュース映像と言うものの信憑性と、裏返しの作為には、慣れっこになっているが、
「どうなんだろうか?」
と言う疑問が湧くのは、まだエネルギーのある証拠か?
しかし、動かなくちゃ、意味はない。
怠惰は敵だなと、遼くんを見て、思う。

事務所に寄り、ららぽーとで、遅い昼食をとり、帰宅。