「瀕死のドライブ。あるいは、死ぬまでにして欲しいたったひとつのこと」

2009/10/13

案の定、ほとんど眠れずに、ホテルのロビーへ。
映画祭の車は、既に来ていて、
「どうぞ」
と、スタッフが、ドアを開けてくれる。
なかなかいい気分だ。
が、それは、車が走り出して、間もなく、悪夢に変わった。
スタッフたちが、大声で、ドライバーに声を掛けている。
ボランティアのドライバー君は、至極真面目そうな好青年なのだが、運転は、荒い。
いきなり、急スピードでバックしたかと思うと、タイヤを軋らせて、止まる。
手にしていたペットボトルの水を思わずこぼしてしまい、ボクの下半身は、水浸しだ。
「おい…」
と、ドライバーに言おうとしたら、既にドライバーは、降りていて、トランクの方に行っている。
「はやくしないと間に合わない!」
と、別のスタッフと喧嘩腰で話している。
すると、ボクの隣に、男が乗り込んできた。
そして、助手席にも。
「何だ、何だ! 一体!」
と、彼らを見てると、ドアが開いて、女のスタッフがニタリと笑う。
たどたどしい日本語で、
「一緒に乗ってもいいですか?」
と訊く。
「きみも乗るの?」
「いいえ、私じゃありません。この人たち」
「もう、乗ってるじゃないか!」
怒鳴りつけたい気持ちを抑えて、「いいよ」とこたえる。
それより、早く走ってくれないと、飛行機の時間に間に合わない。
ボクの乗る飛行機は、釜山から成田までの国際線なのだ。
いくらなんでも、30分前には着いてないと、乗り遅れてしまう。
「早く出せ!」
と、後ろを振り返ると、まだドライバーは、口論をしている。
「間に合わないんだよ!」
と、怒鳴っている。
「全く…」
と、ため息をついて、もう諦めの境地で、寝てしまおうと目を閉じる。
「きっとなるようになる」
しかし、寝るに寝られない。
車が走り出した途端に、助手席の男が、窓を全開にしたのだ。
「いいですか?」
と、訊いてきたので、低速だったので、
「ああ、いいよ」
と、答えたのだけれども、間もなく、ドライバーがむきになってアクセルを踏むもんだから、たまらない。
冷たい突風が、吹き込んでくる。
眠れるもんじゃない。
おまけに、助手席と隣の席の男たちは、には、ひっきりなしに喋っている。
寒さに身を震わせながら、目を閉じる。
そして、うんざりしながら時計を見る。
「大丈夫かな」
と、また心配になる。
高速に入った途端に、渋滞。
来たときと同じだ。
「どうなってんだよ! 韓国の高速は! 日曜祭日一律1000円でもやってんのか?!」
と、叫びたい気分だ。
ドライバーもさすがに焦りだしたのか、ひっきりなしに、どこかに携帯で電話をしている。
助手席の男は、まだ喋っている。
窓は、閉まる気配はない。
余程の暑がりなんだろう。
しかし、渋滞だから、突風が吹き込むことはないので、唇が青ざめるまではいかない。
しかし、寒いことは、寒い。
隣の男が、気にしてボクをチラチラと見ている。
それが目の端に感じられるのだが、ボクは、無視して、窓の外と、時計を交互に見ている。
トンネルに入る。
喋りが夢中の助手席の男は、トンネルの排気ガスが入ってきてもお構いなしだ。
「ようし、だったらこっちもだ!」
と、タバコを手に取るが、グッとこらえる。
第一、排気ガスだらけのところで、タバコを吸っても、うまくない。
そっとポケットに戻して、片手で、ライターをもてあそぶ。
そんなボクの心境など、知ったものかと言わんばかりに、渋滞中のトンネルの中で、窓を全開にして、助手席の男は、まだ喋っている。
「いい加減にしろよな、お前!!」
と、首を絞める。
いや、そんな妄想が湧く。
冷や汗が出て来る。
ニコチン切れか、この状況から抜け出せないためのストレスが一気にボクを襲ったのだ。
血糖値がグングンと上がる。
合併症が、一気に加速する。
眼底の毛細血管が、プツンプツンと音を立てて、切れ、血玉となっていく。
「ああ、失明だ。どうしよう。もう、監督廃業だ」
と、アラーの神に祈る。
ようやく、トンネルを抜け出した。
しかし、渋滞。
全盲になる前に、手の中のライターを見詰める。
「目が見えなくなっても、タバコは吸うぞ! だからこのライターだけは、手放さないぞ!」
握り締める。
そして、窓を全開にして、顔を外に突き出す。
空気を腹いっぱいに吸って、なんとかしのぐ。
けたたましいフランス語から、二人がフランスの監督だと知る。
話題がフランスの女優のことになる。
「ああ、彼女は知ってるよ。話したことがある」
とかなんとかの自慢話大会だ。
まるで、フランスの女優を全て残らず知ってるような口ぶりだ。
「彼女はいいよね」
「でも、カトリーヌの方がいいだろう」
「そりゃあ、もちろん。カトリーヌはいい」
なんて言う。
あのカトリーヌ・ドヌーブ様を、呼び捨てだ。
「ギャラ、高いんだろうな」
「それは高いだろう」
「大体、幾らぐらいなんだ?」
「判らないけど、高いよ」
「大体、どれぐらいなんだろう」
「判らないけど、ベラボーに高い」
「安くやってくれないかな」
「ホンが気に入れば、お友だち価格ってのもあるかも知れない」
「ホントに?!」
ここら辺から、ボクも、聞き耳を立てる。
そうか。カトリーヌ・ドヌーブ様でも、ホンが気に入れば、条件面の考慮をしてくれるものなのか。
話は、続く。
「きっとね」
「よし! アタックしてみるか!」
「しかし、スケジュールがとれないかも知れない」
「ああ、そうか」
ボクも、落胆する。
そうだよな。忙しい人だからな。
「何年も先まで、決まってるらしいからね」
「そうか!」
ボクも、残念がる。
「しかし」
「しかし何だ?」
「ホンが良ければ、スケジュールも空けるかも知れない」
そうか。スケジュールも空けてくれるのか。
「最高なんだよ! 最高のシナリオなんだ!」
へえー。
「だったら交渉してみる価値は、あるかもね」
そうだ、そうだ。
やって見ろ!
ボクも、思わず、応援している。
「よし! やってみるか!」
やってみろ!
「そんなに良いのかい、そのシナリオ」
「うん! 最高なんだ! 傑作だよ! カンヌでパルムドールも夢じゃない! まだ、書いてないんだけど、絶対に、これは、傑作だ!! このボクが書くんだからね!」
で、隣の男が、吹き出して、笑った。
おかしくも何ともなかった。
聞き耳を立てていて、損した気分だ。
「このバカヤロウ」
と、殺してやりたい気分だ。
で、ようやく、空港に着いたのだけれども、「インターナショナル」の看板を通り越して、「ドメスティク」の方に行くもんだから、
「あれ?」
と、思った。
「どこまで?」
と隣の男に訊いたら、
「ソウル」
だと言う。
ボクは、全身が脱力していくのを感じた。
しかもだ。
「何だよ。まだたっぷり時間あるじゃないかよ。じゃ仕方ない。少し早いけど、昼飯にするか」
「水冷麺あるかね。あれは、美味い!!」
などと話している。
「この野郎…」
と、去っていく二人を恨めしく見送り、ボクは、また空港を一周して、ようやく、国際便の方に到着した。
ボランティアのドライバーだから、怒る気にもならない。
「ありがとう」
ひん曲がった顔で言って別れ、タバコを吸い、奴らから、解放されたことを祝った。
助手席の男が最後まで窓を開け放していたおかげで、寒気がして、くしゃみばかり出る。
そうして、ようやくチェックインを済ませて、走って搭乗口まで行く。
通りすがりの人たちがボクの股間を見て、笑っている。
こぼしたペットボトルの水が、まだ乾いていないのだ。
「参ったよなあ! 水こぼしちゃってさあ」
と、誰も聞いていないのに、大きな声を上げて繰り返す。
「何なんだ、一体! どうして、ボクは、こんな状況にいるんだ!!」
帰宅して、倒れ込んだベッドの上で、ボクは悪夢にさいなまれている。
そこにいるボクは、空港に向う車の中で窓から突風に吹かれ、「豚インフルエンザ」に感染し、糖尿病が原因で、瀕死の重症となってしまっている夢だ。
「頼むから…頼むから、その無駄話をやめにしてくれないか?」
ボクは、まだ祈っている。