〈食い扶持〉について。

2009/10/04

「無理」読み終える。
いろいろなところで、かつて観た映画のことが浮かぶ。
終わり方も『アモーレス・ペロス』を思い出す。
しかし、だからと言って、この小説の面白さは、霞むどころか、際立っていく。
何より、登場人物のキャラクターが、ことごとく魅力的だ。
素晴らしいと言うほかはない。
こう言う小説が、一年に一冊あるといいな。
「オリンピックの身代金」も素敵な小説だったが、これもいい。
何一つ、解決をつけないのが、いいのだ。
全てを投げ出して、終わってしまう。
頭の中で、しかしあれは…とかの疑問が湧くのがいい。
町が、立体的に描かれているのがいい。
今夜は、気持ちよく、眠れそうだ。
人生の帳尻というのは、死ぬ間際に合うものだと誰かが言っていて、だったら、中川昭一さんの突然の死も、きっと本人にとっては、帳尻があったんだろう。
同い年なので、他人ごとではない。
人生の帳尻が、死ぬ間際で合うように、一日の帳尻と云うのも、眠る直前には、合っていくのかも知れない。
でなくちゃ、いい大人が、眠れるもんじゃない。
「無理」を読み終えて、気持ちよく眠れそうだと書いたけれども、それまでの、今日一日を振り返ると、散々だった。
目覚めて、新聞を広げると、鳩山さんの「献金問題」のことが書かれていて、捜査着手とある。
第一面だ。
二面でも、引き続き取り上げている。
「早速、始まったか。
これでまた、騒ぎが起こるのか」
悪夢の続きを見ているような気分だ。
「もう、そんなことは、既に、ボクらは、判っていることなんだから、新聞で取り上げようが、テレビのワイドショーで取り上げようが、関知しないほうがいいだろう」
第一、 寝覚めが良くない。
鳩山さんを首相の座から引き摺り下ろし、今度は、誰になるのか? 誰にしたいのか?
自民よりマシだと言うことは、判ってるんだから、しばらくは、放っとけばいいのに、すぐこれだから、嫌になる。
色々と、自民の天下で、してきたことが明るみになってきたと言うのに、マスコミも含めて、それじゃ都合が悪いと言うことなのか?
いずれにしても、〈食い扶持〉かなと思う。
どうも最近、世の中、誰かの〈食い扶持〉だけで回っているな気がしてならない。
志も品位も、優しさも、優雅さもそこにはない。
記者の〈食い扶持〉、テレビ局の〈食い扶持〉、タレントの〈食い扶持〉、政治家の〈食い扶持〉、役人の〈食い扶持〉、企業の〈食い扶持〉、警察なり、検察の〈食い扶持〉。
こうあげつらっていって、ボクの「食い扶持」ってのもあるのに気付いた。
で、
「そうか。〈食い扶持〉が生きる最優先課題なのか」
と、我に返る。
「でも、な。〈食い扶持〉だけで生きてるのって、せん無いことだよなぁ」
と呟く。
昨日、NHKで、子供の貧困の番組があり、それを見ていて、『ワカラナイ』を作ってよかったなと思う。
少なくとも、〈食い扶持〉で作ってるわけではないからだ。
「だから、商売にならないんだよ!」
とか、誰かに言われそうだが、当るも八卦だ。
そもそも、現代を舞台にして、映画を作る意味とは何か?
映画のリアリティーを追求していけば、現実のリアリティーにぶち当たる。
これは、いやおうなく、そうなるのだ。
個人の切実な思いと言うのが結実して、映画になつていくのだから、リアルでなくてはおかしいし、そこには、社会問題全てが盛り込まれていると考えるべきだ!
なーんてね。
まるで、山田洋次監督の昔の映画のようなことを言ってるのに気付いて、慌てるのだが、『若者たち』が好きなボクとしては、映画は無力なのかも知れないが、途方に暮れた人に、勇気を与えることはできるんじゃないかなどとは、思うのだ。
例え、それが、とってつけたようなハッピーエンドでなくてもね。
沢山の観客は、要らない。
社会から弾かれた、子供たちやその親たちに観てほしい。
改めてそんなことを、考えた。