「唐桑」で、『ワカラナイ』を振り返る。


去年の末に、ブログをやめて以来、10ヶ月が経とうとしている。
ぼちぼち再開しようかなと思っていた矢先に、ある人から、『ワカラナイ』のHPに、ボクのブログのコーナーを作りたいと言って来られて、ひょんなことから、再開することになった。
だから、このブログは、映画『ワカラナイ』のためのブログと言うことになる。
私的なことは、今後、一切書かず、『ワカラナイ』の宣伝に徹し、極力、美辞麗句を並び立てる。
何せ、映画をまだ観てない人に向けてのブログだ。
お客さんが来てほしいから、このブログを始めたのだ。
「なのに何だ! 除湿器のことや、秋刀魚のことや、「日本禁煙学会」のことなんか書いて! もっと、真面目にやれ! いやいや、ボクは、実は、「無煙映画賞」のせめて候補作にでもなりたい! でも、その為には、審査員の方々、ぜひ、『ワカラナイ』を観てください。お願いします! もう前売りも売り出してますんで。今なら、特製ポストカード付き! さあ、どうだ! 一枚や二枚なんてみみっちいこと言ってないで、頼みますよ、百枚ぐらい。何せ、「無煙」ですから、「無煙」。ですから、お仲間を、ぎょうさん、お連れになって、『ワカラナイ』。ぜひ、お越しやす」

『ワカラナイ』の制作に入ったのは、2008年二月だった。
制作と言うのは、企画発案から始まる。
一本の映画が作られ、映画祭で、ワールドプレミア上映されると、いよいよ、国内上映となる。
配給をとりつけることもあるけれども、リスクを伴い、しかも、それほど動員が見込めない自主制作映画の場合、配給も自主で行うしかない。
その場合、宣伝会社に、予算を示して、宣伝業務を委託し、配給協力と言う名目で、ロイヤリティーを発生させて、劇場ブッキングも、お願いする。
前作、『愛の予感』では、バイオタイドが、配給協力、宣伝を行った。
少ない予算で、木下くん以下、スタッフは全力で取り組んでくれた。
その間、ボクは何をしていたのかと言うと、もちろん取材を受けるなどの動きがある。しかし、それには、それほどの時間を割くことはない。
一番大変なのが、海外の映画祭からの招待だ。
特に、『愛の予感』は、ありとあらゆる映画祭から招待を受けた。
英語字幕プリントが二本とフランス語字幕プリントが一本。
フランス語のほうは、フランス語圏向けのため、プレミア上映を行ったロカルノなど、数カ国で済んだのだが、英語プリントの方は、二本では到底足らず、モスクワ映画祭や、サンクト・ペテルベルグの映画祭などでは、DVD上映や、デジタルベータカムでのデジタル上映で、補った。
ボク自身の映画祭への招待も、とてもじゃないけれども、行ききれないほどあった。
スケジュール帳は満杯。
全てを受け入れていたら、ボクは、フランスに行き、何日かで、帰国。一日休んで、今度は、アルゼンチンへと、30数時間の旅。また、二日ほど休んで、今度は、アルゼンチンのお隣の、ブラジルは、リオ・デ・ジャネイロ。また、30時間掛けて戻って、時差ボケのまま、スペインは、カナリア諸島といったぐあいに、飛行機に住民票を置いた方がいいような状態になってしまう。
これが、半年近く続くのだ。
そんなことはとても無理だ。
しかし、行けるところは行こうと言うことになり、2007年の秋から冬は、旅に明け暮れた。
気が付いたら、2008年一月。
2007年11月の末から始まった映画の公開は、一月末までとなり、その間に、ボクの特集上映があった。
過去のボクの作品を、日替わりで見せ、何本かのイベントを行った。
その内のひとつは白井佳夫氏の、講義。
愛の予感』から紐解いた、映画史の話だったが、久し振りに、気風のある話し振りに、ボクも聞き入っていた。
ボクは、この人の編集長時代の「キネ旬」が一番面白かったと思っている。
そんなわけで、東京での映画の公開が終了した。
ポレポレ東中野」さんには、本当にお世話になった。
しかし、映画祭ツアーは、まだ終わらない。
フランスのVESOULと言うところで開かれている、映画祭の審査委員長に選ばれたのだ。
VESOULの映画祭は、本当小さな映画祭だ。
ディレクターは、町の小学校の校長先生で、彼の奥さんとの、二人三脚で映画祭を行っている。
VESOULのことを教えてくれたのは、ロカルノでボクの通訳をしてくれた、Tさんだ。
「しかし、審査員と言うのがね…」
ボクは、東京国際映画祭で一度。
韓国のチョンジュ映画祭で一度、審査員と言うのをやったことがあるのだが、どちらも中途半端に終ってしまった。
作品の出品者(監督)と違って、審査員と言うのは、やたらに待遇がいい。
アゴアシは勿論のこと、毎日のようにレセプションに招待される。
ホテルも、その町では、もっとも高級なところを用意してくれる。
映画館までは、運転手つきの車があてがわれて、送り迎えはもちろん、私用にも使うことが出来る。
それはそれでいいのだが、毎日、最低二本の映画を観て、それなりのメモをとり、おまけに、評価を下すのが、たまらなく辛い。
だからよほどのことがない限り、審査員は、お断わりしようと考えていた矢先だった。
しかし、フランスの小さな町で開かれている、小さな映画祭と言うのに、魅かれた。
VESOULと言う町の名も、読みづらく、カタカナでも書きづらい。そんな、主張のない町での映画祭と言うのがいい。
ので、
「とにかく、一度、行ってみよう」
そんな結論に至った次第だ。

VESOULに入る前にもうひとつ行かなければならない映画祭があった。
それは、ロッテルダム映画祭で、その年、ボクの特集上映が組まれたのだ。
ボクは、映画祭半ばで、ロッテルダムを離れ、電車で、パリに入り、パリで一泊してVESOULに入った。
入ったその日に、市役所でレセプションが行われ、その夜は、ディレクター氏の自宅で、パーティーが開かれた。
何やら、胸躍る気分だった。
そこには、送り迎えの車もなければ、全館禁煙のホテルもなかった。
食事も、補助券が与えられ適当な店で食べてくれとのことだった。
つまり、放し飼い。
「これは、いいぞ!」
と、唸った。
町に一軒だけある中華料理店を見つけた。
「よし! ここだ! ここに毎日、通おう!」
フランス料理が駄目なボクにとっては、中華料理店は、欠かせない。
寝食がそろったところで、あとは、映画を観るだけだ。
そして、翌日から、映画の鑑賞が始まった。
映画館のカフェで、審査員たちとミーティングして、各人、思い思いの映画を観るために、別れた。
そして、その夜は件の中華料理屋で夕飯をとり、ホテルに戻ってカタログを見ながら、メモを書き始めた。
深夜の二時を過ぎた頃だった。
携帯が鳴った。
奥さんからの電話だった。
泣き声だ。
一体何が起こったんだろう。
「亡くなったの、お父さんが!」
続いて出た彼女の言葉に、ボクは唖然とするばかりだった。
そんな訳で、ボクは、やむをえず、帰国した。
VEOUL映画祭の人たちには、大変、申し訳ないことをしたと思っている。
「こう言う仕事をしていると、親の死に目にも会えない」と言うのは、ホントだなと思った。帰国したボクは、父の亡骸の待つ、板橋の病院へと向った。
そして、翌々日が、葬儀だった。

『ワカラナイ』のシナリオを書き出したのは、それから、半年近くがたったころだった。
愛の予感』が完成してから、既に一年半の月日が経っていた。
前にも書いたように、『春との旅』と言う映画の企画が、あるにはあったが、前年の秋の金融破たん(リーマンショック以前)のあおりを受けて、この年の四月に撮影する予定だったものが、ある日突然、中止となったのだ。
原因は、もちろん、金だ。
製作費が、出なくなったのだ。
ところが、ある人の尽力で、来年の四月には、何とか、制作にこぎつけられることになった。
しかし、まだまだ不安要素は、山ほどある。
しかも、来年の春。
「来年の話をしたら鬼が笑う」
と言う言葉がある。あてには、出来ない。
「何もしないで、今年も一年、過すわけにはいかないだろう」
そんな思いで、梅雨をすっ飛ばしてやってきた夏にうろたえていた。
唐桑まで、ひとり、車を飛ばした。
その車と言うのが、ついに父の形見となってしまった、BMW
しかも12気筒の、化け物のような車だ。
(これもついに、今年(2009年8月に廃車となり、スクラップとなってしまったのだが…)
家に着いて、直ぐにワードに向った。
書式をいつものシナリオ形式にして、打ち始めた。
一切、メモはとらなった。
書くことは決まっていた。
タイトルは、『ある男、ある女』。
そんなタイトルだった。
舞台は、気仙沼。そして、唐桑。
遠洋漁業の漁師が、一年ぶりに家に帰ったら、妻が浮気をしていて、愛人の車で、事故を起こした。
そして、ひとり息子を失っていたという話だ。
残された夫と妻は、どのようにして、絆を取り戻していくのか…。
シナリオは、丸二日で完成した。
一日休んで、改訂作業に入った。
繰り返し、読んだ。
興奮状態のまま、東京に戻り、更に、読み返し、改訂した。
薄っぺらな、台本だった。
50ページにも満たない。
でも、これはいけると思った。
しかし、ものの一週間で、萎えてしまった。
何かが足りない。しかし、その足りない何かが、何なのかわからない。
いずれにしても「自己模倣」の域を出ていないような気がした。
この問題は、毎回、付きまとうことだ。
自分でシナリオを書く以上、過去の作品との類似からは、免れられない。
「自己模倣」の是非を問う前に、「自己模倣」なくしては、ものづくりは成り立たない。
それは判っているのだが、進化が見えないのは、やはり駄目だと思った。
これは、先送りだなと思った。
あるいは、ボツだ。
自棄になって、呑んだ。
毎日、昼から呑み、夜明けまで、呑み続けた。
呑んで、メモを書く。
しかし何も出て来なかった。

『ワカラナイ』を書き出したのは、それから、一週間ほど、後のことだった。
『バッシング』の時と同様に、苦手だと思っていたことを、してみたいと思ったのが、発端だった。
例によってシナリオを書き出した。
今度は唐桑ではなく、ボクの狭い仕事場だ。
リフティングしている少年の画が浮かんだ。
間欠的に、リフティングしている少年の足がカットインされる。
書き出しが決まると、後は、すらすらと流れた。
問題は、エンディングだが、それは、改訂時に、やればいい。
いつものことだ。
いつものように、イージーだ。
イージーが、文字どおりなのか知らないが、「安易」と言うこと。
現場では、最近、厳密になってきたが、ホンを書くときは、「安易」。言い換えれば、「いい加減」。
でないと、シナリオなんて、書けたもんじゃない。
特に最近は、そのような傾向になっている。
シノプシスを書かないのは、昔からで、テレビを書いていた時は、ハコ書きを書けと良く言われたが、書いたのは、最初の何本かで、あとは、書いたことがない。
シノプシスというか、企画書が本当に上手い人がいるが、羨ましい。
ボクは、ダメ。
自慢じゃないが、自分で企画書を書いて、通ったことがない。
初稿は、二日で、書きあがった。
感触は、まあまあ。
それで恒例の、ワインで、お祝い。
もちろん、ひとりでだ。
一週間ほど放っといて、発酵を待つ。
そして、改訂作業が始まる。
読み返すことなく、アタマから、直していく。ケツまで行ったら、また、アタマからから始める。
それを、二十日間ほど、毎日、何度も繰り返す。
いちいちプリントアウトするので、何千枚と言う紙を使う。
無駄なことだ。
奥さんのお小言が、飛ぶ。
「また、無駄遣いして!」
と。
「良いんだよ。これは、唐桑に行って、薪ストーブの発火紙に使うんだから」
と、言い訳をする。
毎度のことだ。
そろそろ形になってきたところで、いよいよ、真剣に、読みだす。
また、改訂。アタマから、直す。
そして、また、真剣に読む。
また、改訂。アタマから、直す。
きりがない。
直しながら、この映画は、(撮影に)いつ入るのかを考え始める。
それよりも、これを、作るのかどうか。
映画を作るには、金が掛かる。
自主映画であっても、やはり大金が必要だ。
以前、良く、
「映画って、どのぐらいのお金があると作れるんですか?」
と、訊かれたことがある。
「金があったら作れるってもんじゃないですよ」
と、答えたけれども、今までのボクの自主映画の場合は、居抜きで権利を買って、居酒屋を開き、半年間の維持費を足したくぐらいは、最低かかる。
と、なるとん千万だ。
大事業だ。
しかも、儲けは、見込めない。
いや、儲けを見込んだら、映画は、作れないのだ。
やるとなると、半年先、家族が路頭に迷うことも、覚悟しなくてはならない。
「それでも、やるのか?」
自分に問いかける。
「んー」
と、唸って、酒を呑む。
奥さんや、息子の寝顔を眺めたりする。
そして、繰り返し、
「それでも、やるの?」
と、問いかける。
ゲーテだろうと、ソクラテスだろうと、こんなには、悩まなかったんじゃないかと思うぐらい、悩む。
そして、
「悩まないことにしよう!」
と、結論を出し、制作にはいる。
ここで悩み続けていると、死ぬまで悩むことになる。
だから、中止する。
10年もやってると、ボクも人並みに、学習するものなのだな。
こうして、『ワカラナイ』は、制作に入ったのだけれども、その先のことは、また、気分が向いたときに、書くことにしよう。
勝手ばかりで、ごめんなさい。